いつから、スキになったの?[三次市]

広島から三次(みよし)へ向かうJR芸備線の車中にいる。吉田口を過ぎたあたりで、「あっ」と思った。川の流れが変わったのだ。車内からだとなかなか水の流れはわからないが、それでもどちらが下流かは判別がつく。川は列車と同じ方向に向かって流れている。
吉田口といえば、広島から50kmほどだ。なのに、もう川の流れていく先は、瀬戸内海ではない。

この江の川(ごうのかわ)が合流する所に三次がある。川はそこで西城川・馬洗川と合流し、水量を増して日本海を目指す。川は町を南北に分断し、…というより、合流地点そのものが町の中心にある。人間はその周りに住まわせてもらっている感じだ。
合流地点にかかる橋を巴橋という。三方から来て交わるわけで、巴とはよく名付けたなと思う。
それにしても、三次(みよし)というのはどうしてこんな読み方になったのだろう。
「次」はどう読んでも「よし」とは読めない。
島根県に木次という町があるが、これは「きすき」と読む。芸備線で三次の隣駅は八次だが、これは「やつぎ」。三次だけが、「次」を「よし」と読ませるのだ。

三次という地名は『出雲国風土記』にも見られる(読みは不詳)。ただし、ずっとこの字を使っていたわけではない。中世には三好、三吉の文字も使われていた。
「三次=ミヨシ」になったのだけははっきりしていて、1664(寛文4)年5月22日。三次藩初代藩主・浅野長治が「三吉を三次に」改めてからだという(『日本歴史地名大系 広島県の地名』平凡社)。古書の表記に従って、復古させたらしい。

作家の司馬遼太郎も『街道をゆく 芸備の道』で、この難読地名に言及している。
同書によれば、スキは古代朝鮮語で村を意味していたらしい。とすると、島根県の木次(キスキ)とは「木の村」という意味だろうか。
司馬は、三次はかつて「水村(ミスキ)」ではなかったか、という史家の説を紹介している。また、「次」には「場所」という意味があるので、ミ(御または美)という美称を付けて「み次(ミスキ)」としたか。
やがて、三次(ミスキ)の字があてられるようになった。
——が、世がくだると、次をスキと訓む記憶がうすれ、中世以後の言葉であるらしい(古語にはない)好〔スキ〕があてられ、三好〔ミスキ〕になる。三好はつい三好〔ミヨシ〕と訓まれやすく、中世末期になると表記も訓みも三好〔ミヨシ〕、三吉〔ミヨシ〕になった。それが江戸期、浅野領になってから政治的決定で漢字だけは古表記の三次にもどし、そのくせ訓は俗のまま「みよし」にした、というのが、ごく常識的に考えられる事情だったのではないか。
(『街道をゆく 芸備の道』)
司馬の話は1979(昭和54)年の連載当時のものだ。今はどんな説が唱えられているのか、気になるところだ。

うだつのある町並みを散策する。T字路やL字型の道が多いのは敵の侵入を防ぐためで、江戸時代の名残だろう。
粘土を焼成した「三次人形」の地元だけあって、町のおもちゃ屋さんが妙に立派だ。ショーウィンドウには五月人形が並んでいる。道も徐々に石畳風に整備されているようだ。
「町並みがよく整備されていますね」と歴史民俗資料館の係員の方に話しかけたら、「それでもやっと最近のことなんですよ。昔はこういう建物もいっぱいあったんですけれども、もうだいぶ無くなってしまって…」と残念そうな口ぶりだった。

巴橋の上から川面を眺めてみた。三方向からゆったりとした流れが合流する。が、川面を見ているとかなり複雑な流れだ。合流点で一瞬よどんだような動きをしながら、やがてそれは江の川に収斂されて、北西へと流れていく。
三次(ミスキ)→三好(ミスキ)→三好(ミヨシ)→三次(ミヨシ)
この説を立証するには、「好」という字の経歴がわからなければならない。「好」はスキとも読むし、ヨシとも読む。「好」という字が出現して、当初はなんと読まれたのかは知らない。だが、それがスキと読まれるようになったのは確実のことだ。問題はそれがいつ頃なのかということだ。いつから、スキになったの?——そんなことを考えると、歴史の茫漠とした流れのなかに飲み込まれるような気がする。
三次市 | |
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住所 | 広島県三次市 |
TEL | 0824-63-9268(三次市観光協会) |
交通 | JR広島駅よりJR芸備線快速で約1時間20分、三次駅下車 |
ワンポイント | 三次市歴史民俗資料館とその周辺の古い町並み、忠臣蔵ゆかりの鳳源院などが観光スポット。町の北西部にある尾関山公園は桜と紅葉の名所。 |