江戸時代の「村」そのものが残る[大内宿]

大内宿

かつてコモドオオトカゲが発見された時に、学者たちは「恐竜が生きていた!」と叫んだと言うが、もし現在日本の歴史学者たちがなんの予備知識もなく、ここに連れてこられたら、「江戸時代が生きていた!」と叫ぶかもしれない。
会津西街道の大内宿(おおうちじゅく)はそれほど、古い町並みをよく残しているスポットである。

池袋から鬼怒川温泉行きの特急に乗り、野岩鉄道・会津鉄道を経由して4時間後に、湯野上温泉駅に着いた。途中30分の列車待ちがあったので、正味は3時間半。大内宿は駅から約6km、タクシーで10分ほどである。タクシーはよく整備された山道を駆け上がり、やがて周りを山々に囲まれた平らな土地に到着した。


大内宿

大内宿は江戸時代初期に、一帯に分散していた自然村を現在の地に集め、宿場町として整備されたというが、土地の平坦さがこの場所を選んだ理由だったろうか。

道の両脇に連なる40〜50軒ほどの民家のほとんどが茅葺きだ。村では1798(寛政10)年以来、大火がなく、家並みも昔のままだという。
村の突き当たりの小高い丘には観音堂があるほか、稲荷、弁天、賽の神も祀られている。たんに茅葺きの建物が遺っているというだけではなくて、江戸時代の村の構成要素もそのまま現存しているようだ。

道の両脇には用水が流れている。江戸期に道の真ん中を流れていたのを明治になってから道の脇へと引き直したという。水路には冷たい水があふれていて、打ち水に使ったり、飲み物を冷やしたりと、立派な現役の生活用水だ。

大内宿:観音堂へ向かう石段

通りに面した家屋のほとんどは、名物の蕎麦などを出す食事処や民芸品店、土産物店、民宿などである。中心部には、かつての本陣(大名などの宿泊所)を復元した「大内宿町並み展示館」が建っていて、宿場町の歴史がわかるようになっている。

急な石段を登って観音堂へ行ってみると、「今日はお祭りなんですよ」といって地元の婦人がお堂のなかでお茶を飲み、菓子を食べていた。お祭りといっても山車とか御輿が出ることもなく、派手な飾り付けもない。ただ、女性と子どもだけが集まって寄り合いのように歓談を楽しんでいた。

観音堂

「大内宿町並み展示館」の方に聞いてみると、女性だけが集まって行う「観音講」だという。江戸時代、特に女性は休息や娯楽が少なかったので、日を決めてお堂に籠もり、神仏に祈願すると同時に飲食を楽しんだというレクリエーションの一種だ。
「講」自体は今でも農村などで行うところはあるが、それを江戸期さながらの村の中でやってしまうところがすごい。まさに江戸時代が生きているという感じだ。

大内宿

大内宿は会津西街道にあって、会津藩主松平家が参勤交代の際、休憩・昼食をとる場所として活用されていた。
当時の松平家の大名行列は600人規模との記録がある。道普請や荷物の運搬に動員された人足は6000人以上と見られ、昼食だけとはいえ、かなり賑わったことだろう。

大内宿は大地震で西街道が40年間不通になったりして一時的に寂れたが、明治までは宿場として機能していた。ところが1884(明治17)年に新しい街道(現在の国道118・121号線)が開通したために、人馬の往来はぱったりと途絶え、宿場としても成り立たなくなってしまう。

大内宿

普通、こうなってしまうと、村は寂れ、最悪の場合、集団離村などということが起こるものだが、江戸時代から「半農半宿」だったことが幸いした。以来、農業と出稼ぎで生計をたてていくことになる。

〈新しい街道からはずれると、多くは生活にこまって、かえって家などたちくされになってゆくものだが、この村の人たちはよく稼いで自分たちの村を守った。そして長い間火事も出さなかった。村人の結束もかたい上に、特別に大きな財産家もない。村人をだしぬいて自分だけはよい生活をしようとするような人もいなかったことが、このような村をのこしたのであろう〉と民俗学者の宮本常一は書いている(『宮本常一著作集18』「日本遊覧記」)。

大内宿

「大内宿町並み展示館」のパンフレットによれば、1946(昭和21)年に電気が引かれ、石油ランプから電灯にかわる。昭和30年代の半ばに耕運機やテレビが入ってくる。昭和40年代になると簡易水道が引かれたという。それまでの飲料水は家の前を流れる用水に頼っていたのだ。

1969(昭和44)年、宮本常一の弟子の相沢韶男(現・武蔵野美術大学教授)が大内宿を訪れ、家屋の配置や間取り、宿場の家並みの学術的報告を行った。これによって、研究者の関心が高まると同時に、大河ドラマ「樅ノ木は残った」(1970年)のロケーションなどにも使われ、見学者で賑わうようになる。

大内宿

地元でも町並み保存の声が少しずつ高くなっていくが、そこへダム景気がやってくる。1977(昭和52)年に着工された大内ダムである。これにともなう補償金や工事現場での収入によって、茅葺きからトタン葺きに変える家が続出。また、二階建て家屋の建築が相次いだ。

この頃には文化財保護法が改定され、「重要伝統的建造物群保存地区」の制度が定められていたが、大内地区の住民による総会では文化財指定を受けない方針が決定されたという。(『奥会津 大内宿』大塚実著・歴史春秋出版)
「宿場町の面影」は風前の灯火だったわけだが、ダム建設が終わりに近づくにつれ、住民は再び文化財保存に関心を向けるようになる。

大内宿

1980(昭和55)年、大内地区は町に宿場保存の陳情書を提出。町の条例制定を経て、翌年3月、大内宿は重要伝統的建造物群保存地区に選定された。その後、保存運動にも力が入り、舗装道路を撤去し、一度トタンにした屋根をふたたび茅葺きに戻す民家も増えてきた。

もし、このダム景気がもう10数年早く、昭和30年代後半などにやってきたとしたら、大内宿は跡形もなく消え失せていたかもしれない。たまたま、1970年代という歴史的景観や環境問題、伝統文化というものに社会的関心が高まっていた時期だったのが幸いしたのだろう。大内宿はすんでのところで急ブレーキを踏んだ、と言えるかもしれない。

大内宿

町並み展示館を見学し終わり、外へ出てみたら、ちょうど、一軒の家屋が茅の吹き替え中だった。なるほど、大人数でなければできないメンテナンスだ。
脇の家屋では、軒にすだれの束のようなものがぶら下がっている。何かと思ったらマメコバチの巣で、果樹の受粉作業のために巣を設けているとのことだった。

大内宿

そうこうしているうちに日が暮れてきた。あちこちでバタンバタンと戸を閉める様子がまた良い。
17時前になると、あれほどいた観光客もすっかり姿を消して、長く尾を引く西日が旅の寂寥感を感じさせる。ここには民宿もあるので、宿場町に敬意を表して泊まりたいところではあるが、その日のうちに会津若松へ入る用があったので、駅へ向かうべくタクシーを呼ぶ。

大内宿

タクシーを待っているあいだ、日はゆっくりと西へ傾いていく。宿場町の裏手には田畑が広がっていた。
大内宿が旧態をとどめることができたのは、「半農半宿」の生活を送っていたため、宿場として没落してからも生活がなんとか成り立ったからだ。今は差し詰め、「半農半観」だろうか。今後もしぶとく生き残っていってほしいものである。

※大内宿に関しての記述は、『奥会津 大内宿』(大塚実著・歴史春秋出版)、大内宿町並み展示館のパンフレット及びパネル展示を参考にした。

大内宿
住所 福島県南会津郡下郷町大字大内字山本
TEL 0241-69-1144(下郷町商工観光係)
交通 東武日光線下今市駅から野岩鉄道・会津鉄道経由2時間30分、湯野上温泉駅下車。さらにタクシーまたはコミュニティバスで10分
ワンポイント 大内宿では5軒ほどの民宿が営業している。各々、囲炉裏をかこんでの食事、蕎麦が名物、蔵を改造した客室に泊まれるなどの特徴を持つ。近くの湯野上温泉にも旅館がある。