「夢物語」の向こうに浮かぶ、江戸時代の人と犬との関係/『犬の伊勢参り』

犬の伊勢参り

『犬の伊勢参り』仁科邦男著(平凡社新書・2013年)

江戸時代、犬が突然、伊勢参りを始めたという。誰かに連れられていくのではなく、ひとりでトコトコと歩いて行き、参拝までするというのだ。最初に犬の伊勢参りが目撃されたのは、明和8年(1771)4月16日昼頃と、その日時まで判明している。お宮の前の広場に平伏し〈まことに拝礼の状をなせり〉(『明和続後神異記』)という。

その後も続々と、「犬がお伊勢参りをする」という報告が残されている。どうも説話の類とも違うようだ。なんらかの愉快犯が噂を広めて楽しんでいる様子もない。いったいこれは何事が起きているのか?
著者は多くの事例を引きながら、その謎解きに挑む。

背景としてあるのは、江戸時代中期以降、伊勢参りが大衆的になり、参拝者も爆発的に増えていったことだ。
庶民でも「一生に一度は伊勢参り」と口にするようになり、中には「抜け参り」のように、仕事も何もかもほったらかして、群衆が伊勢へ向かうという現象も起こった。
下男下女が次々に抜け参りに行ってしまったので、家来にあとを追わせたら、その者まで抜けてしまったなんてケースもある(今のお遍路のように道中「お接待」があったので、乏しい路銀でもなんとかなったらしい)。

こういう状況下で町や村の人が集団でいなくなると、犬が後を追ってくることもあったろう。それに、犬は人と一緒に行動するのが好きな動物だ。
もし、はぐれてしまっても、「伊勢参りの犬」ということになれば、街道筋の人がエサをくれたりする。道案内をしてくれた親切な人もいただろう。

道々数文ずつ「お接待」をしてもらったのだろう、首に数百文の銭を巻き、「お伊勢参りの犬なのでよしなに」という各宿場からの送り状を付けた犬などの記録もある。
当時の街道には、宿場から宿場へ荷物をリレー方式で送る「継ぎ送り」というシステムがあった。犬もこのシステムに載るように、旅を続けることができたのであろう。
最長記録は、嘉永年間、飼い主の知らないうちに青森県の黒石から伊勢まで往復した犬で、しかも飼い主と感動の再会を果たしている。

著者はこれらの話を単なる奇談として羅列するのではなく、その背景にある〈ヒトとイヌがどのような関係を保ちながら生きてきたか〉という歴史にアプローチする。

江戸時代、町や村の住人と犬との関係はどのようなものだったのか?——これこそが、江戸時代になぜ「犬の伊勢参り」がさかんになり、明治以降は、ぱったりと途絶えてしまったのかを解き明かすカギにもなる。人と犬との関係は、明治になって大きく変わってしまったのだ。

著者はあとがきで

犬はどのようにして伊勢参りを始めたのか。その謎は本書の中でほぼ解明できたと思う。しかし、それでもなお犬の伊勢参りは、なにか夢物語のような気がする。

と書く。
夢物語のような話の向こうに、明治期以降とは異なる、江戸時代の人と犬との関係がおぼろに浮かび上がってくる。